強運経営者塾 水戸、日光 徳川家ゆかりの地を訪ね日本の平和を考える②

2016.06.20.01

次の日は水戸から日光へ移動。そして日光東照宮へ。

 

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日光東照宮は徳川家康公を祀るため天海僧正が作ったとされています。

天海僧正の素性は不明ですが、関ヶ原の戦いの時に突然、家康の軍師のような存在として歴史に出てきます。

この天海僧正が明智光秀ではないかという説があります。

 

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徳川家の家紋といえば三つ葉の葵ですが、なぜか日光東照宮の本殿につながる陽明門には明智家の桔梗紋が。

 

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明智光秀は敦賀(するが)と亀岡を治めていましたが、日光東照宮には鶴と亀の像が。

二代将軍徳川秀忠と三大将軍徳川家光の名には光秀の文字が。

そして日光東照宮の近くには明智平という地名があります。

明智光秀は母親を、徳川家康は妻と長男を織田信長に殺されています。この二人が本能寺の変で手を組んだと考えられなくはないです。

歴史は過去の仮説でしかありませんが、未来も仮説によって成り立っていく。

 

2016.06.20.05

その後、華厳の滝へ。すごい迫力!

 

2016.06.20.06

お昼は華厳の滝近くの食堂でおいしいお蕎麦と雑穀ご飯を。

 

なぜ御三家の一つ、水戸徳川家から将軍が出なかったのか?

水戸徳川家には将軍継嗣の資格がなかったと言われています。

何故、家康がそう仕向けたのかについてはいくつかの説、考えがあるとは思いますがあくまでも推測に基づくものだと思います。

家康は子沢山で、頼房は十一男でした。

家康が征夷大将軍となった時点で生き残って(生まれて)いた男子は(結城)秀康、秀忠、忠吉、忠輝。

それに家康が征夷大将軍に任じられる寸前に生まれた義直その後に生まれた頼宣、頼房が存在しました。

そのなかで、跡を継いだ秀忠と俗に御三家と呼ばれた義直、頼宣、頼房だけに「徳川」の姓を名乗らせそれ以外の男子は他家を継がせて徳川姓を名乗らせていません。

俗に御三家と言われていますがこの御三家という定義も曖昧というか、時代により違っていたという話もあります。

(将軍家・尾張家・紀伊家が御三家だった、あるいは尾張・紀伊・駿河(忠長)が御三家だったのが、その後、尾張・紀伊・水戸が御三家と呼ばれるようになったと言われています。)

そして、尾張、紀伊家が将軍継承権を認められていたのにたいして水戸家は認められなかったというだけでなく官位が一段低い扱いを受け、さらに石高(およびそれ以外の副収入)で圧倒的な差をつけられていました。

つまり、尾張、紀伊がほぼ同じ扱いだったのに比べて水戸家はかなり落ちる扱いを受けています。

しかも、頼宣(紀伊)と頼房(水戸)は同じ母親であり年齢も1歳しか違っていませんでした。

家康が何人もいた男子のなかで義直、頼宣、頼房だけを”特別扱い”しさらに頼房だけ扱いを変えたのかを、明快に説明することは難しいでしょう。

”徳川の家系を残すために水戸家は徳川宗家の敵側に味方するように命じた”という意見もありますが、義直が非常に強い尊王思想を持っていたことはかなり知られたことです。

一般的には尾張、紀伊には血のスペアとして存在させ、一方、水戸家は将軍家(宗家)を支える役目という明確な役割をそれぞれに与え自分の男子のなかでも、この三家を特別扱いさせることにしたと考えられています。

(水戸家は領地が江戸に近く、また江戸常府とされていました。)

ちなみにですが、この三人が特別扱いされたのは家康が歳をとってからの子で特別可愛かったからだとか家康が将軍になってから生まれた(厳密に言うと義直は違いますが)子だったので、他の(跡継ぎである秀忠を除いた)兄弟とは差をつけたのだという話もあります。

あるいは、頼房は小さいころ乱暴者だったので家康に疎まれた(と頼房が自ら語った)という話もあります。

 

 

 

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